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  1. 御祭神
  2. 土師神社の草創
  3. 菅原道真公と道明寺
  4. 近世以降の発展
  5. 道真公「故郷」と詠まれる
  6. 唱歌『菅公』
  7. 菅原道真公のご事跡

御祭神

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土師神社の草創

 垂仁天皇の32(西暦3)年、相撲の祖といわれる野見宿祢のみのすくねが、「はにわ」を創って殉死に代えた功績で、「土師はじ」の姓とこの辺り一帯を所領地として賜わって以来、遠祖天穂日命をお祀りしたのが土師神社の始まりです。その後、仏教が伝来し、推古天皇の2年、聖徳太子の発願により、土師八嶋が自宅を喜捨し土師寺が建てられました。

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菅原道真公と道明寺

 この道明寺には、道真公のおば様であります覚寿尼公がお住まいになられていました。
 その覚寿尼公のおいにあたられます道真公は、幼少の頃から和魂漢才の人といわれ、5才にして和歌を詠まれ、11才にして漢詩を作られました。そして、40才の4月より7月まで当地にご滞在され、夏水井げすいのいの水を汲み青白磁円硯せいはくじえんけんにより、五部の大乗経を写されました。その経塚から、胚芽が経巻の形をした「もくげんじゅ」が生え、謡曲「道明寺」にも有名になりました。
 また、宇多上皇の大和河内御巡幸の際にも、当地にお伴され、「雨中錦を衣て故郷に帰る」と、漢詩に詠まれたことからも、公はこの地を第二の故郷として慕われていました。

 やがて57才にして従二位右大臣に進まれましたが、無実の罪で九州大宰権帥だざいのごんのそちとして淀川を下られる舟の中でも、

世につれて浪速入江もにごるなり 道明らけき寺ぞこひしき

と詠まれ、道明寺の訪問を許されました。そして、この道明寺で覚寿尼公との別れを惜しまれ、八葉鏡にお姿を映されて犀角柄刀子さいかくえとうずで自像を荒木に刻まれ、

鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音の なからん里の暁もかな

との御歌を残されて西海に赴かれました。この歌から、道明寺に住む者は鶏を飼わないという信仰が続いています。

 公は無実の罪であっても、ひたすら謹慎のまことを尽くされましたが、延喜3(903)年2月25日に59才で亡くなられました。

 その後天暦元(947)年に残し置かれた木像を北丘にお祀りし、ご遺品をご神宝として安置し、土師寺を道明寺と改称、延慶3(1310)年には西琳寺の僧鑁阿ばんあに神託があり八葉鏡に勅封を賜わりました。

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近世以降の発展

 天正3(1575)年当国高屋城の兵乱に、社殿等が焼失しましたが、幸い御神像と宝物等は難を免れ、この年、織田信長公より、また天正11(1583)年と文禄3(1594)年には、豊臣秀吉公より、さらに徳川幕府よりも代々の寄進があり、享保年中に霊元天皇、中御門天皇より女房奉書を賜わってから明治初年まで毎年初穂料が下賜されてきました。

 寛永10(1633)年、石川の氾濫により坊舎等は北丘の神社境内に移りましたが、明治5年、神仏分界により、五坊の中、二之室が神職家となり、道明寺は道を隔てて西に移築され、現在に至っています。また明治10(1877)年には明治天皇の行幸の際、行在所となりました。

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道真公「故郷」と詠まれる

  醍醐天皇の昌泰元年(898)10月、道真公は宇多上皇の片野宮滝御幸に随行されました。龍田山を経て、河内国に入るときに詩を詠まれました。

 満山の紅葉心機を破る
 況んや浮雲の足下に飛ぶに遇ふをや
 寒樹は知らず何れの処にか去る
 雨中に錦を衣て故郷に帰る

「故郷」といいますのは、もちろん「道明寺」の地を指しています。

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唱歌『菅公』

 戦前まで小学唱歌として歌われておりました。
 懐かしいと思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか?

日かげさえぎる むら雲の
ほすよしもなき ぬれぎぬを
身にはきつれど まごころの
あらわれずして 止まめやと
神のまもりを たのみつつ
配所に行きし 君あわれ

のちをちぎりし 梅が枝に
東風ふく春は かえれども
菊のせちえの 後朝きぬぎぬ
宴にはべりし 秋はこず
御衣を日ごとに 拝しつつ
配所にはてし 君あわれ

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